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■ 今月読んだ本
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| 第２４５回 宇沢弘文（1928－2014）の社会思想―『社会的共通資本』から学ぶ（2） |
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２ 宇沢が辿った道－発言・行動する人生（続）
まずは、誕生から旧制高校卒業まで。
宇沢弘文は1928（昭和３）年７月２１日、父時夫（小学校教師、旧姓田村）、母寿子の次男（４男１女の２番目）として鳥取県米子市角盤町に生まれました。宇沢家は江戸中期に法勝寺（現南部町）で代々米屋を営み、いつの頃からか米子に移ったようです。
弘文が生まれて間もなく世界恐慌が起こります。春日村（現米子市）で農業を営んでいた父の実家は家計が逼迫します。時夫は実家への仕送りをあてにされており、不満に思っていたようです。
弘文が３歳になった頃、父は家屋敷、家財道具を売り払い母と子ども３人（長男、次男、生まれたばかりの長女）を連れて上京します。父は小学校に勤務し、中学受験指導で評判の教師でした。自分の子どもに対しても教育熱心で、弘文は自宅(田端)近くの滝野川第一小学校を卒業し東京府立第一中学校（現日比谷高校）へ進学します。父はレストラン経営、山林購入などの副業に手を出し、米子で蓄えた財産はいつの間にか底をつきます。
府立一中に入学したのは太平洋戦争が始まる直前の1941年４月でした。高木貞治の名著『解析概論』などを独学で読み込み、授業中に数学教師から「この証明はこれでいいか」とよく尋ねられたそうです。先生はわざと誤った板書をして、授業に参加させるために宇沢が間違いを指摘するように仕向けたのではないか、と回想しています。
中学時代、特に親しかったのは歴史人口学の開拓者である速水融（あきら）でした。慶應義塾大学へ進み、同大学教授などを歴任、宇沢と同様に文化功労者に選ばれ文化勲章を受章しています。
旧制中学校は５年制でしたが、戦時措置によって４年で卒業となりました。４年生になると勤労動員で軍需工場に通います。宇沢は「反戦闘士」でした。速水によると、勤労動員の行き帰りの電車の中で「軍国主義は怪しからん」と聞こえよがしに叫んだことがあり肝を冷やしたといいます。
速水の父は哲学者で、父の兄は「農政の神様」と言われる農政学者の東畑精一、父の妹の結婚相手は敗戦直後に獄死する哲学者の三木清です。家族が疎開した速水は東畑邸に住んでいました。東畑は近衛文麿のブレーンで「昭和研究会」のメンバーだったため、かなり詳しい戦況に通じており、三木も東畑も身内との会話では戦争遂行に反対していました。
宇沢が東畑邸を訪れたとき、速水が伯父の書斎を見せてくれたことがあります。宇沢は大量の書物に圧倒され「知」の世界の奥深さを垣間見た気がしました。速水の影響はとても大きかった、と宇沢は後に語っています。
1945年３月、戦時措置による１年繰り上げで府立一中を卒業し、翌月、第一高等学校に進学しました。旧制高校は第１外国語の履修によって甲類（英語）、乙類（ドイツ語）、丙類（フランス語）に分かれていました。医者を志望する宇沢は医学部、薬学部、農学部に進学する理科乙類（現在の東京大学理科Ⅱ・Ⅲ類に相当）を受験して合格。全寮制であり４月から駒場寮に入ることになります。
３月１０日の東京大空襲によって田端の自宅は焼失し、永福町の転居先も５月に空襲に遭いました。結局、弘文以外の家族は父の郷里である春日村に疎開します。
一高に入っても勤労動員は続き、授業はほとんどなく工場通いの毎日でした。空襲で工場は全焼します。夏休みに入ると、帰省のついでに遠縁の寺で修行することにしました。
曹洞宗永福寺は伯備線生山駅から３キロほどの島根・岡山・広島県境に近い山あいにあります。朝早くから自分の部屋で読書を続け、夜になると酒を飲みながら１７代米積昌賢和尚の説話を聴きます。「ウソをつけ、という教えはよかったね。自分を良く見せるウソはだめだけど、自分を悪く見せるウソはいいっていうね。あの教えには感動した」と米積師の言葉を回顧しています。ラジオで終戦の玉音放送を聞いたのもこの寺でした。
一高時代、夏冬の長期休業で帰省する際には永福寺に寄ります。３歳で米子を出た宇沢にとって幼い日を過ごした郷里の記憶はなかったと思います。静謐な永福寺から見た中国山地の光景が郷里の心象風景となったのではないでしょうか。
一高の１学年下には日本共産党委員長になる不破哲三（ペンネーム、上田建二郎）、１年上には兄の上田耕一郎がいました。当時の旧制高校生の例にもれず宇沢もマルクス主義思想に傾倒します。
マルクス主義に関心を持つきっかけは必ずしも不破たちの「東大細胞」の存在ではありませんでした。宇沢は不破から「宇沢さん程度のマルクス経済学理解では、とても共産党の入党試験は受かりませんよ」と言われたようです。
当時の一高には特設高等科が設置され100人前後の中国人留学生が在籍していました。彼らは毛沢東の『矛盾論』『持久戦論』などのパンフレットをこっそり見せてくれました。帰国後は蒋介石軍と戦い、中華人民共和国建国、朝鮮戦争でほとんどが戦死したといいます。中国人留学生との交遊によって宇沢はマルクス主義に関心をもつようになったのです。
身長180センチの大柄な体格を生かすためラグビー部に入った宇沢は、ラグビーに明け暮れた一高の生活も終わりに近づき、自分が医者に向いていないのではないかと疑念を抱くようになります。人格高潔で名誉や金銭を求めずすべてを患者にささげる「ヒポクラテスの誓い」を知り、自分にはあまりにハードルが高過ぎると思ったからでした。
医学部進学を断念し東京大学理学部数学科を受験します。１５人の定員に対し２３倍という難関です。絶対に受かるはずがない、と思って永福寺で勉強しなおそうと荷造りをしていたとき、わざわざ本郷まで合格発表を見に行ってくれたラグビー部の友人が、合格を知らせてくれました。ところが、取得単位、出席日数が足りないので卒業できないと教務から連絡があります。その友人が宇沢を連れて先生たちに頭を下げてまわり（英語のpleaseに相当する「ビッテbitte」という一高の慣習）、なんとか卒業となりました。２０歳のときでした。
ここから、研究者としての前期が始まります。
理学部数学科では1948年から３年間、フィールズ賞選考委員を務めたこともある世界的な数学者高木貞治の弟子、彌永昌吉（代数的整数論）と末綱恕一（数学基礎論）に師事し数学に打ち込みました。数学科を卒業後、給費をもらって自由に研究できる特別研究生として大学院に残ります。特別研究生は将来を嘱望される者しかなれない特別待遇です。しかし、数学を研究する一方でマルクス経済学の勉強を続けていた宇沢は、敗戦によって多くの人々が飢えと貧困に苦しんでいるときに、数学を学んでいて許されるのか、と苦悩します。
大学院前期課程２年で数学科を去ることを決意した宇沢は２人の恩師に訴えます。「日本の社会がこれだけ混乱しているときに、ひとり数学を勉強しているのは人間として苦痛です」と。両教授とも何度も強く引き止めましたが、宇沢の決意が覆ることはありませんでした。
彌永教授に紹介された文部省統計数理研究所ではセクハラを繰り返す上司を批判して１年で退所、保険統計数理士の見習いとして入社した朝日生命保険では賃上げをめぐって経営陣と労働組合が馴れ合っていることを糾弾します。組合執行部は総辞職し宇沢が役員に選ばれてしまいますが、経理のごまかしを指摘したことで逆に会社側から守秘義務違反を責められ２年ほど退社しました。
統計数理研究所に在籍していたとき、電車の中で偶然にもラグビー部の先輩で名キャプテンだった稲田献一（当時は東京都立大学助手、後の大阪大学教授）に出会います。独学で経済学を勉強していた宇沢を東京大学経済学部の若手研究者たちの研究会に誘ってくれました。当時の東大経済学部はマルクス経済学の牙城でした。若い世代は最新の数理経済学を研究していました。
数学科出身だった宇沢はアダム・スミス、Ｊ.Ｓ.ミル、リカード、マルサス、マーシャル、ヴェブレン、ケインズらの経済学を体系的に学んでいきます。マルクス経済学とは思想、論理、方法など全く異なる経済学です。
最も衝撃を受けたのが、スタンフォード大学の少壮経済学者ケネス・アロー（1921－2017）による一般均衡理論（一般均衡解の存在証明）でした。アローらの論文をむさぼり読んだ宇沢は、競争市場の安定性が局所的にしか存在しないことに疑問を抱きます。持ち前の数学力を発揮して「局所的な安定性」ではなく「大局的な安定性」を証明することに成功します。どの大学、学会にも所属していないために発表する機会がない宇沢は、無謀にもアロー本人に論文を送付します。
1955年秋、思いのほか早く返事が来ました。翌年９月から１年契約でスタンフォード大学の研究助手（リサーチ・アソシエイト）にならないかという誘いでした。
1956年８月、２８歳で宇沢はアメリカに渡ります。当時、マッカーシー上院議員が中心となった反共運動「赤狩り」の嵐がスタンフォード大学でも吹き荒れていました。
数理経済学の世界的拠点となっていた数理社会科学研究所（民家を借り上げセラ・ハウスと呼ばれた）の２階、バスルームをはさんでアロー研究室の隣に部屋を与えられた宇沢は、水を得た魚のように研究に邁進します。即戦力として期待されていました。
ある時期、ほぼ１週間に１本のペースで質の高い論文を書いていました。研究助手の義務とは何か、と尋ねた宇沢に対して、アローが「そうだね、１年にひとつかふたつの論文を仕上げることかな」と答えたことがあります。どうやら宇沢は「１年」を「１週間」と勘違いしたようです。優れた論文を量産する無名の日本人研究者をアメリカの経済学者たちは次第に注目するようになっていきます。
1957年、宇沢はカルフォルニア大学バークレー校大学院で学ぶ青芳浩子と結婚します。父勝久はプリンストン神学校で賀川豊彦とともに学んだ著名な牧師でした。セラ・ハウスの近くに探した新居の家主アン・シムズは、宇沢が敬愛する経済学者ヴェブレンの娘（再婚相手の連れ子）でした。宇沢夫妻は家主と一緒によく平和集会に行きます。集会ではジョーン・バエズという地元高校生が歌っていました。
保守的なスタンフォード大学では、平和集会の参加などは「赤狩り」の口実になりかねません。優れた研究実績があるにもかかわらず准教授への昇進が滞っていました。アローは助教授になっていた宇沢をテニュア（終身在職権）のある准教授にぜひとも昇格させたいと考え、1960年９月から１年間、カリフォルニア大学バークレー校に移籍させ、スタンフォード大学に准教授として呼び戻す計画を実行に移します。
富裕層の子女が通うスタンフォード大学とは対照的に西海岸のバークレー校は庶民的で開放的な雰囲気が漂っていました。宇沢にとってスタンフォードよりはるかに居心地がよかったようです。数理経済学理論に新風を吹き込んでいた宇沢は、論文「経済成長の２部門モデルについて」という古典的業績を発表します。
1961年、予定通りスタンフォード大学に復帰した宇沢は准教授に昇進します。アメリカでは通常、博士号を取得した大学に研究者を残しません。師の影響から離れ自由に研究させるためです。1962年、宇沢は博士論文「レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究」によって経済学博士（東北大学）となりました。
この頃、宇沢の周辺にＦＢＩとおぼしき怪しい人物が出没するようになっていました。中国経済を研究する宇沢の大学院生が逮捕され、同じような事件が続きます。右傾化する大学当局の施策に対して、宇沢やアローは教授会で反対します。大学に居づらくなってきました。
ちょうどその頃、シカゴ大学から誘いがあります。数理経済学の教授が病で倒れたからです。宇沢は悩みます。アローとの関係はとても親密でした。一方で、アローから離れて、学問的にも人間的にもアイデンティティーを確立したいと思うようにもなっていました。アローはスタンフォード大学を辞めることに驚き悲しみました。1964年３月、宇沢はシカゴ大学に教授として赴任します。３５歳のときです。
当時のシカゴ大学経済学部は、右派から左派まで幅広い研究者が存在する中で、市場原理主義者の勢いが増して新自由主義の「聖地」になりつつある過渡期でした。
宇沢がしばしば激論を闘わせた同僚の一人はアメリカ・ケインジアン（「大きな政府」派）を主役の座から引きずり下ろしたミルトン・フリードマン（1912－2006）です。フリードマンは、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン－惨事便乗型資本主義の正体を暴く』（原著2007年、岩波書店2011年）で描くように、チリのアジェンダ社会主義政権の転覆に暗躍するなど、目的のためであれば手段を選ばない冷酷非道な経済学者の一面も持ち合わせていました。レーガン、サッチャー、中曽根（小泉）らの政権下で、新自由主義は世界中に格差社会を拡げていきます。
1960年代以降、シカゴ大学経済学部を中心に展開する経済学はフリードマンを総帥とする「シカゴ・スクール（シカゴ学派）」として広く知られるようになります。しかし、宇沢がスタンフォード大学から数人の学生を連れてシカゴ大学に着任したとき、必ずしも市場原理主義経済学一色ではありませんでした。宇沢は毎夏３ヶ月ほど、アメリカ各地で博士論文を執筆中の大学院生を約１０人集めてセミナーを開きました。費用は全米科学財団が全額を負担します。参加者の中にはスティグリッツ、アカロフ（ともに2001年ノーベル経済学賞）もいました。「ウザワ・スクール（宇沢学派）」が形成されつつありました。多くの大学院生が宇沢の２部門モデルを利用して博士論文を書きます。そのなかの一人に「台湾民主化の父」と言われる李登輝（1923－2020）がいます。京都帝国大学出身の彼はコーネル大学に留学して台湾の農業問題に取り組んでいました。後に宇沢は、李が総統を退任する直前の2000年４月、台湾に招かれて「社会的共通資本と持続的成長」と題する講演を行っています。
学生の徴兵猶予が停止され、シカゴ大学でも学生たちのベトナム反戦運動が続発します。宇沢は教授会でアメリカ政府を激しく非難し、同僚に嵌められて公安関係者とおぼしき人物に会ったこともありました。
宇沢は現代経済学がベトナム戦争遂行に深く関わっていることに衝撃を受けていました。第２次世界大戦前にハーバード大学ビジネススクールで教鞭を取り、戦後はフォード・モーター社長を務めていたマクナマラはケネディー大統領の要請で国防長官に就任します。統計的手法を駆使するオペレーション・リサーチを取り入れ、最大最適の費用対効果を求めて枯葉剤散布作戦を採用し、増税も行わずインフレも起こすことなく大規模な戦争を遂行するマクナマラは自信にあふれていました。アメリカは敗北への道を突き進んでいきます。後に「木を見て森を見ず」失敗に追い込まれることを「マクナマラの誤謬」と呼ぶようになります。
世情が混乱する中、1966年9月から1年間、不完全競争理論を確立し「異端の経済学者」と呼ばれたジョーン・ロビンソン（1903－1983）との前々からの約束でケンブリッジ大学に滞在します。1年間のケンブリッジ生活を終えシカゴに戻ると、テニュアを持っていない助教授３人がベトナム反戦運動のシンパという理由で解雇されており、そのうち２人は行方不明になっていました。
兵力動員が繰り返され、同僚の息子たちが徴兵される話を聞くようになります。宇沢は、アメリカにいることに一種の恐怖を覚えるようになります。アジアの小国が軍事大国アメリカによって侵略されているとき、自らの選択でアメリカにとどまっていてよいのか、と自責の念に駆られていました。 |
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| 宇沢弘文（1928－2014）の社会思想―『社会的共通資本』から学ぶ（３）へ |
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○今月読んだ本
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岩田 直樹
(いわた なおき)
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高校で数学を教えていた。定年退職後の2022年４月から地元大学に勤務。十代後半から二十歳過ぎまでは人並みに小説を乱読したが、それ以降は、現象学からはじめて、思想書をゆっくりと読み進んでいる.。著書に『橋田邦彦・現象学・アーレントの再解釈』（2023年）。
『宇沢弘文「社会を治す」』（2024年）がある。 |
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ｂａｃｋ ｎｕｍｂｅｒ
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