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■ 今月読んだ本
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| 第２４６回 宇沢弘文（1928－2014）の社会思想―『社会的共通資本』から学ぶ（3） |
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２ 宇沢が辿った道－発言・行動する人生（続々）
宇沢が日本に帰る決意をアローらに伝えたとき、同僚たちから翻意を促されます。意外なことにフリードマンからもシカゴ大学に残るよう強く説得されます。フリードマンは宇沢が帰国後に日本語で書いた論文、新聞の寄稿記事を英語に翻訳させて丹念にチェックするくらい、宇沢の研究を強く意識していました。サミュエルソンは国際的名声の頂点にあるときにシカゴ大学を離れることを訝ります。ケンブリッジ大学からの誘いもありました。数理経済学の国際的ネットワークの「僻地」に帰ることに呆れる者もいました。
1968年、４０歳のときに宇沢は帰国します。研究者としての後期が始まります。
宇沢は東京大学「助」教授に就任しました。宇沢より年上の助教授がいたため、教授になれなかったと言われています。年功序列の悪しき慣例が実力主義を押しのけたのです。給与と研究費の総額は１５分の1に減りました。シカゴ大学経済学部教授という数理経済学の分野では世界のトップランナーが教授から助教授に降格することは、欧米のアカデミズムでは考えられない人事であり一種のスキャンダルでした。実際、アメリカの経済学界では大きな話題となったといいます。シカゴ大学当局は、翌年、教授となるまでシカゴ大学正教授の地位を名目的に保存するよう配慮しました。
日本でも大学紛争が全国的に拡大していました。ほとんど授業ができず翌年１月には安田講堂が占拠され東大入試は中止となります。
丸山眞男（1914－1996）が中心となり東大の在り方を抜本的に議論する改革フォーラムが結成されていました。帰国したばかりの宇沢も参加します。東大を解体する改革案の要点は、駒場キャンパス（１・２年生が通う教養学部）をリベラルアーツの４年制カレッジとすること、本郷キャンパス（３・４年以上の専門教育の場）は学部学科ごとに独立する専門学校（大学院に相当、２～３年制）として専門家養成教育の場とすることでした。予想された通り学内に猛反発が起こって改革案は潰えます。特に法学部、駒場の反発が強かったといいます。1971年、丸山は早期退官しました。
1974年、４６歳のとき、『自動車の社会的費用』（岩波新書）を刊行し、ベストセラーになります。単独で執筆した初の著作です。担当したのは１１歳年下で駆け出しの編集者、大塚信一でした。この本によって宇沢は学界という狭い鳥籠から大空に飛び立つことになります。「発言・行動する後半生」の始まりです。
宇沢は水俣、阿賀野川、四日市、むつ・小川原、川崎などの公害に苦しむ地域を歩きます。水俣では熊本大学の原田正純医師に伴われて何度も患者宅を訪れ、原田医師と患者たちの間に結ばれた深い信頼関係に感動するとともに、公害問題を理論的枠組みに取り込めない主流派経済学に対して強く疑問を抱くようになります。何よりも、患者たちが理不尽にも味わっている言語に言い表すことのできない苦しみと悔しさに深い怒りを覚えました。
宇沢は評伝を書いた佐々木実に「沈黙の１０年間」について語ったことがあります。環境破壊の現場を歩き回った一時期、完全に経済学研究から離れていた、と。もちろん「沈黙」していたわけではありません。精力的に発言、執筆活動を続けていました。
1976年から1年間、多くのノーベル経済学賞受賞者が務めた世界的に権威のある計量経済学会の会長に就任しました。1989年に東京大学教授を定年退官してからの主な経歴を列挙しましょう。日本学士院会員、新潟・中央大学、国際連合大学高等研究所特任教授、同志社大学社会的共通資本研究センター所長、ＴＰＰ（環太平洋パートナーシップ協定）を考える国民会議代表世話人など。
1990年、ローマ法王ヨハネ・パウロ２世から「回勅」作成に参画してほしいとの依頼がありました。回勅とは、そのときに世界で一番重要な問題を取り上げて、どう対処すればよいのかを全世界の司教にあてて法王が発信する文書です。教会外部の人間が参画するのは2000年の歴史の中できわめて異例でした。イタリアの経済学者が宇沢を推薦し、法王は地球温暖化問題などの論文に目を通していたといいます。そのときの愉快なエピソードが残っています。
宇沢は法王の部屋でご馳走になったことがありました。そのとき口が滑って「法王は人間の魂の救済という、人間が生きるうえで一番重要な職業にかかわっていらっしゃるのだから、いろいろなことをもっとはっきりと主張すべきです」と言ってしまいます。法王は「この部屋で私に説教したのはあなたが初めてだ」と笑います。法王は長い白髭を生やしていた宇沢をえらい仏教徒だと思ったようです。
1991年から1998年にかけて、６３歳からの７年間、宇沢はＳＰに警護されながら成田空港問題解決に奔走しました。国側と住民側（反対派）が参加した成田空港問題公開シンポジウム、成田空港問題円卓会議を中心にした宇沢の関与について、さらに成田空港問題の概要については、拙著の該当箇所をご覧ください。実は、今回の講演に際して成田空港問題のお話をする予定でした。しかし、３０分以上超過することが予想されたので、残念ながら割愛しました。社会的共通資本の理論的構築の試金石であり、理論と実践が往還する宇沢思想の根幹に関わる問題です。詳しくは、宇沢による著作『「成田」とは何か―戦後日本の悲劇－』（岩波新書、1992年）、編著『三里塚アンソロジー』（岩波書店、1992年）がわかりやすいと思います。
1997年、文化勲章を受章します。その４年前、文化功労者となり、皇居で天皇陛下に自分の業績を話したときのことです。すっかりあがってしまった宇沢はしどろもどろになります。昭和天皇が身を乗り出され、「経済には人間の心が大事だと言いたいんだね」とおっしゃいました。宇沢は核心を突いたそのお言葉に目が覚めた思いがした、といいます。
東日本大震災の１０日後の2011年３月２１日、宇沢は脳梗塞で倒れます。３年半の闘病生活の末、2014年９月１８日に死去。享年８６歳でした。パソコンには「東日本大震災」の空のフォルダが残されていました。
以上、研究者人生を前期と後期に分けてお話ししました。まとめとして、３つのポイントを箇条書きします。
①敗戦直後の飢餓と貧困を目の当たりにし、数学を学んでいて許されるのか、という思いから経済学の道へ。
②アメリカ時代、現実から遊離しがちな数理経済学の分野で世界のトップランナーに。新自由主義の弊害、反戦運動の激化など、経済学の「外部」に直面し帰国。
③ＧＤＰ世界第２位の数字の裏に厳然と存在する社会問題に積極的に関与し発言・行動するとともに、９９％の人々のための新しい経済学（社会的共通資本）の構築へ。
３「入会地・コモンズ」の拡張としての「社会的共通資本」
宇沢思想の一丁目一番地は社会的共通資本です。説明する前に、類似した混同しやすい２つの概念に触れておかなければなりません。
まず、「社会間接資本Social Overhead Capital」です。ハーシュマンが直接生産資本と対比させるために唱えたこの概念は、道路・港湾・電力・電信・住宅整備など（社会インフラ整備）、教育・医療衛生など（生活基盤整備）、すべての公益事業などを含みます。しかし、経済学の「外部」である「自然環境」が欠落しています。
コールマン、ブルデュー、パットナムが提唱した「社会関係資本Social Capital」も紛らわしい概念です。合理的選択理論に依拠するコールマンは、社会関係資本を「社会構造のある側面からなり、構造内の個人にある種の行為を促す」と定義します。ハビトゥス概念の提唱者ブルデューは、人間の社会的資源を、文化資本、経済資本、社会関係資本（日常的な近所づきあい？）に分類しました。
名著『孤独なボウリング』（2000年）の著者パットナムは、「社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」と記述します。本書は社会、政治、文化など広範囲のデータを渉猟し、アメリカ社会における人々の紐帯が急速に失われていった様子を克明に描きます。タイトルは、仲間と和気あいあいと楽しんできたチーム・ボウリングが、1970年代以降、ボウリング人口は増加したにもかかわらず一人で楽しむゲーム形態へと急速に推移したことを示す卓抜した比喩的表現だと思います。
社会学の立場からの社会関係資本は、物理的な社会基盤を論じることはできません。社会間接資本と社会関係資本を拡張する理論的枠組みは存在するのでしょうか。
その前に、市場経済の「外部」を論じたイリイチの２つの概念を思い出してみましょう。「コンヴィヴィアリティconviviality」の原義は、谷戸に住む隣人たちを結びつけてきた歴史的な絆、入会地・共有地Commonsを守ってきた隣人たちの絆です。また、「ヴァナキュラーvernacular」の原義は「地に足がついた」「根づいているもの」「居住」です。コンヴィヴィアリティ、ヴァナキュラーともに、社会関係資本の形容詞に相応しいのではないでしょうか。
なかなか社会的共通資本へ辿り着けません。もう少しの辛抱です。
「コモンズ（共有地）の悲劇」はＳＤＧｓに引き付けて論じされることが多くなっています。ハーディンが『サイエンス』に発表した同名論文は、図のように過放牧によるコモンズの荒廃（持続可能性とは正反対）を惹き起こします。 |
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「コモンズの悲劇」は牧草地だけに起こるのではありません。宇沢による社会的共通資本の理論とは独立した研究であるオストラム『コモンズのガバナンス』（1990年）は、地下水、灌漑システム、漁場、森林などの共的資本（Common
Pool Resources、ＣＰＲと略す）を研究対象にしています。そこでは、１３の事例、すなわちスイス、日本（山梨県の入会地）、スペイン、フィリピン、アメリカ、トルコ、スリランカ、カナダにおける６つの成功例、７つの失敗例が取り上げられます。
オストラムは長期的自律的なＣＰＲの設計原理を抽出します。①明確な領域、②管理の適応性、③利用者の参加、④監視、⑤段階的な制裁、⑥紛争解決、⑦最小限度の認識権、⑧複数層の統治組織の７つです。これらの原理だけではイメージできないと思います。実証的な研究であり、『コモンズのガバナンス』を読むと「なるほど」と納得するのではないでしょうか。
７つの設計原理によって「コモンズの悲劇」が解決されるかというと、そんな単純な問題ではありません。コモンズは閉鎖系ばかりではありません。海や大気社会システムなどのような開放系、すなわち「外部」が関わる場合はどうでしょう。
ここでようやく真打ち登場です。2000年、宇沢は満を持して『社会的共通資本』（岩波新書）を世に問います。1970年代から理論と実践を行き来しながら到達した暫定的結論です。目次を見ると、扱っている内容の広さに圧倒されます。列挙してみましょう。
序章 ゆたかな社会とは、第１章 社会的共通資本の考え方、第２章 農業と農村、第３章 都市を考える、第４章 学校教育を考える、第５章 社会的共通資本としての医療、第６章 社会的共通資本としての金融制度、第７章 地球環境。
余計な文飾を排した綱領のような書きぶりで、読んでいて「面白味」に欠けます。その分、エッセンスがよく理解できるはずです。
「社会的共通資本Social Common Capital」の定義はいたってシンプルです。①自然環境…大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌など、②社会的インフラストラクチャー…道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、③制度資本…教育、医療、金融、司法、行政など。
新古典派・新自由主義的経済学では、当然のことながら「市場経済＝市場」です。市場の「外部」は想定されていません。私事で恐縮ですが、この等式を見るたびに、私が今でも住んでいる集落の５０年前を思い起こします。その頃、戦前から続く製紙工場が村の真ん中にあり、多くの従業員で周辺の食堂、店、宿屋などは潤っていました。しかし、後に山陰海岸ジオパークになる白砂の海岸線はヘドロで汚染され、煙突からは何とも言えない臭い煙がいつも吐き出されていました。製紙工場は環境基準が厳しくなると撤退します。市場の「外部」である海や空気は劇的にきれいになる一方で、村の経済は衰退していきました。
社会的共通資本の理論的枠組みでは、「市場経済＝市場＋非市場」です。あるいは、「非市場の中に市場が包摂されている」、「市場の土台が社会的共通資本である」とも言い換えられます。現在では常識であるこの考え方は戦後しばらくは非常識でした。常識／非常識は時代が変われば容易に反転するものです。
私なりに、社会的共通資本を図示したのが下図です。
太陽光発電などに代表される再生エネルギーを考慮すると、地球と宇宙空間のエネルギーのやり取りを無視することはできません。 |
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| 時間が限られていますので、ここでは社会的共通資本（ＳＣＣと略します）のうち、最も身近なＳＣＣである「道路（交通）」と地球規模の喫緊な課題である「大気」に話を絞りたいと思います。 |
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| 宇沢弘文（1928－2014）の社会思想―『社会的共通資本』から学ぶ（４）へ進む |
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○今月読んだ本
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岩田 直樹
(いわた なおき)
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高校で数学を教えていた。定年退職後の2022年４月から地元大学に勤務。十代後半から二十歳過ぎまでは人並みに小説を乱読したが、それ以降は、現象学からはじめて、思想書をゆっくりと読み進んでいる.。著書に『橋田邦彦・現象学・アーレントの再解釈』（2023年）。
『宇沢弘文「社会を治す」』（2024年）がある。 |
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ｂａｃｋ ｎｕｍｂｅｒ
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