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■ 今月読んだ本
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| 第２４７回 宇沢弘文（1928－2014）の社会思想―『社会的共通資本』から学ぶ（４） |
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３ 「入会地・コモンズ」の拡張としての「社会的共通資本」（続）
最も身近な社会的共通資本である道路（自動車）を論じたのが、『自動車の社会的費用』（岩波新書、1974年）です。膨大なデータ分析によって「外部不経済」（市場を介さずに第三者にもたらす不利益・損害）に切り込み、ベストセラーになりました（毎日文化賞受賞）。
道路に関する各種データの推移は次の通りです。時は高度経済成長期、田中角栄の日本列島改造論が人気を博していました。自動車保有台数は1960年340万台から1972年は7.1倍の2400万台へ。可住面積１平方キロ当たりは1960年３０台から1972年は6.6倍の200台へ（米国２６台、英国120台、西独102台）。高速道路総延長は1963年の７０キロから1973年には14.3倍の1000キロへ。一般国道総延長は1963年の２万５千キロから1973年は８千キロ増の３万３千キロへ。
交通の各種データも併せて示します。東京都の自動車が通行可能な公道は２万キロであり、そのうち幅5.5メートル以下は７０％、歩道整備率は２３区で9.8％、三多摩地区で2.3％でした。交通事故死亡者数は、警察庁統計（２４時間以内に死亡）では１万６千人（2022年の約１４倍）、厚生省統計では２万１千人、負傷者は９５万人に達します。死亡者のうち約半数は歩行・自転車乗車中であり、死亡・負傷者の約８％が歩行・自転車乗車中の１５歳未満でした。当時は交通戦争と呼ばれ、日清戦争の死者数より多いと言われたものです。また、大気汚染物質排出量に対する自動車の寄与率は一酸化炭素９３％、炭化水素５７％、窒素酸化物３９％であり、大気汚染の元凶になっていました。
宇沢の算定前に存在した「自動車の社会的費用」は次の３つでした。運輸省（1970年）による自動車１台当たり７万円は、交通安全施設投資額、事故損失額、交通警察費の合計を自動車保有台数で除した数値です。運輸省による計測例から交通安全施設投資額（歩道・横断歩道、踏切立体交差、児童公園などの整備費）を除外したのが、自動車工業会（1971年）による6622円です。３つ目は、野村総合研究所(1970年)による１７万8960円で、大阪の大気汚染損害額に準じた社会的費用を考慮しています。
人々が安心・安全に歩く基本的権利を守るための社会的費用は、どのように算定すればよいのでしょうか。
宇沢が前提にした「歩行者の基本的権利」はいたってシンプルです。歩道と車道が完全に分離されていること、並木などによって排気ガスや騒音が直接歩行者に被害を与えないこと、歩道橋など歩行者に過度の負担を与える道路構造を避けること、住宅と道路の間に十分な距離を保つことで住環境を破壊しないような措置をとること、等々。
宇沢は東京都に限定して社会的費用を算定します。その結果は１台当たり1200万円となり、利息分を税として賦課すると１年当たり１台につき200万円となります。当時の乗用車３～４台分に相当する金額です。この数字は衝撃的でした。各方面から批判されます。しかしその後、道路構造の改善は「歩行者の基本的権利」を守る方向で進んでいったことは言うまでもありません。
宇沢は社会的共通資本の理論的枠組みを構築しようと模索していました。『自動車の社会的費用』には格差社会を論じた箇所があります。格差社会論より約２０年早い議論であり、宇沢の先見の明に驚きます。少し長くなりますが、引用します。文中の「環境」を「社会的共通資本」と読み替えれば、すぐれて今日的な課題を論じていることがわかります。
「環境破壊がおきたとき、あるいはおきると予想されるときに、所得水準の高い人々は、より環境の良好な場所に移り住むことが可能である。しかし低所得者層は、経済的あるいは職業的な事情によって、たとえ環境が汚染されていても移るということが困難な場合が多い。したがって、環境破壊によって、名目所得の分配に関する不平等性がさらに拡大されたかたちで実質的生活水準の不平等となってあらわれることになる。しかも、環境を汚染・破壊する経済主体は、そのような活動によって便益を享受することができる。……所得分配の公正ということについて取扱うことを回避する新古典派の考え方に立つとき、公害問題について意味のある発言をすることができるであろうか。せいぜいパレート最適の基準にもとづいて資源配分の効率性を論ずることができるにすぎない。」（117－118頁）
次に、地球規模の喫緊の課題である大気、すなわち地球温暖化の問題です。宇沢は『地球温暖化を考える』（同上、1995年）で一般向けに分かりやすく解説します。今から３０年前、地球温暖化について詳しく知る人はほとんどいませんでした。
その前に、２０世紀半ば以降の環境問題の歴史を振り返ってみましょう。1950年代から1960年代にかけては、公害問題、環境破壊がクローズアップされます。1972年に開催された「国連人間環境会議」（ストックホルム）の人間環境宣言では、環境保護の優先（先進国）、開発優先・援助増強（後進国）が併記されます。1970年代になると、真鍋淑郎（2021年ノーベル物理学賞受賞）らの「大気海洋結合モデル」によって地球温暖化のメカニズムが解明されていきます。
1980年代はオゾン層破壊問題が主たる論点になりました。1987年の「モントリオール議定書」によってオゾン層破壊物質の製造・消費・貿易は規制されるようになります。さらに、1988年には「気候変動に関する政府間パネルＩＣＰＰ」が設立されました。
1992年の「環境と開発に関する国連会議」（地球環境サミット、リオ・デ・ジャネイロ）では、先進国（今風に言えばグローバル・ノース）が惹き起こす地球温暖化、生物多様性の喪失、海洋汚染、砂漠化の進行などによって、発展途上国（グローバル・サウス）が直接的・不可逆的な被害を受けることが議論されました。「持続可能な開発」の考え方を含めて、２１世紀の地球環境問題の枠組みがほぼ出揃います。
1990年代の宇沢は、社会的共通資本である地球環境を、未来世代のために保全する理論の構築に邁進していきます。
宇沢が提唱した画期的な構想とは「比例的炭素税」と「大気安定化国際基金」でした。
1990年にローマで開催された地球温暖化に関するシンポジウムで、宇沢は「比例的炭素税」「大気安定化国際基金」（宇沢フォーミュラ）を提唱します。1995年の環境と持続可能な経済発展に関する国際シンポウム（箱根）では、宇沢フォーミュラをさらに精緻化します。多くの経済学者は賛同しますが、宇沢の教え子のノードハウス（カーター政権下の大統領経済諮問委員、初めてホワイトハウスで地球温暖化問題が取り上げられたときの担当者、2018年ノーベル経済学賞受賞）ら、地球温暖化対策に後ろ向きの有力者たちが反対しました。「宇沢フォーミュラvs.排出権取引（ノードハウスら）」の対立図式は、政治の場で決着されることになります。
排出権取引とは、温室効果ガス排出枠を超過した国・自治体・企業などが、排出枠内に抑制した国・自治体・企業などから炭素クレジットを買うことによって、排出削減目標を達成するシステムです。宇沢は、排出量は逆に増大すると厳しく批判します。その後、温室効果ガスの排出は増大し続け、「地球温暖化」どころか「地球沸騰」（2023年7月、グテーレス国連事務総長）の時代が到来したことは記憶に新しいところです。
まずは比例的炭素税から説明します。現在世代が化石燃料を大量消費して、大気中の二酸化炭素濃度を１トン増加させたときに、社会的共通資本としての大気の価値（帰属価格）はどれくらい低下し、将来世代にどれほどの被害を与えるでしょうか。宇沢は帰属価格（陰の価格）、最適経済成長理論（宇沢の定理、1961年）などを駆使して、現在世代と将来世代の不均衡問題を考察します。地球温暖化は先進国の経済活動に起因することは明らかです。経済正義の観点から、各国一律の炭素税を課すことは許されません。
大前提は1人当たり実質国民所得水準が二酸化炭素の帰属価格に比例することです。宇沢は、多くの変数を含む複数の数式によって、発展途上国の負担を増やして経済発展を妨げることのないように、各国間の経済格差を是正するための理論的枠組みを創出します（温室効果ガスについても適用）。各国の炭素税（温室効果ガス1トン当たりの帰属価格）の算定結果は、例えば、日本・スウェーデン190ドル（日本はバブル経済期）、デンマーク180ドル、アメリカ170ドル、‥‥‥韓国３５ドル、マレーシア１８ドル、タイ９ドル、フィリピン５ドル、インドネシア４ドルとなります。
次に大気安定化国際基金について。各国が徴収した比例的炭素税収から森林補助金を差し引いた額の一部（例えば１０％）を大気安定化国際基金に供託し、ある一定のルール、例えば１人当たりの国民所得と人口に依存する比例配分的なルールで、発展途上諸国に配分していきます。各国は受け取った額を、大気均衡の安定化と経済の調和的発展のために支出するわけです。
1997年の第３回気候変動枠組締結国会議（ＣＯＰ３、地球温暖化防止京都会議）では、京都議定書の中で先進国限定の温室効果ガス排出削減目標が提示されます。「京都メカニズム」として採用されたのは排出権取引でした。宇沢フォーミュラは政治的駆け引きの場で敗れたことになります。
配布資料にはありませんが、現在（１１月２４日午後）、会期を延長して国連気候変動会議（ＣＯＰ２９、アゼルバイジャン）が続いています。議論が難航している原因は、気候変動対策のための「気候資金」の総額です。グローバル・ノースからグローバル・サウスへの支援は、2025年までは年間1000億ドル（約１５兆５千億円）を目標としていました。その額を大幅に上げることが要求され、長時間にわたって議論が紛糾しているのです。（その後、2035年までに少なくとも年間３千億ドル、日本円にして約４６兆５千億円を目標額とすることで合意。）
ＣＯＰ２９のゴタゴタぶりを見ると、宇沢フォーミュラの理論的優位性を強く感じます。グローバル・サウスがグローバル・ノースに対して一方的に支援を求めるのではなく、双方とも応分の負担によって対等な立場で地球温暖化の進行を防いでいこうとする互助・共助の精神がそこには認められます。 |
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４ 宇沢思想なくして「持続可能な社会」は実現しないー何を学ぶのか
講演の冒頭部分でお示しした三層図式をより精緻化したのが下図です。 |
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下から２段目の「公共性・倫理」は「主体の形成」「世代間倫理」「よく生きることwell-being」になります。さらに最上層には「持続可能な社会」が加わります。拙著では、「主体の形成」は丸山眞男の２つの論文「忠誠と反逆」(1960年)、「歴史意識の「古層」」(1972年)に、「世代間倫理」は加藤尚武『環境倫理学のすすめ』(1991年)に、「よく生きること」はロールズ『正義論』(1971年)、セン『不平等の再検討』(1992年)に依拠して議論を進めました。
社会的共通資本は、時代によってその内実を変容させることが求められます。宇沢が考察を深めていった時期、今日のネット社会は想像できなかったでしょう。『社会的共通資本』の刊行年はWindows９５発売の５年後です。ウェブ上の言論活動を含む文化資本を付け加える必要があります。 |
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未来世代を含めて誰一人取り残さず「つづく」社会を構築していくために、専門家集団の役割はきわめて大きいと言わざるを得ません。ＳＣＣ具現化の試金石です。
「社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。この原則は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー（fiduciary：受託・信託）の原則にもとづいて信託されているからである。」（22‐23頁）
宇沢の弟子である松島斉（社会的共通資本では論文が書けず、ゲーム理論を専攻）は、社会的共通資本についての熟議を促す制度設計こそが問われなければならないと強調します。宇沢本人も、この理論的弱点には気がついていたはずです。
「ＳＤＧｓの枠組みでは…専門家集団のみならず政府、民間セクター、市民社会、国際機関など、多様なステークホルダーが共通の目的達成のために協力することが重視される。（中略）宇沢は社会的共通資本の維持管理のためにどのような制度を考えるべきか、そしてその制度設計にどのように取り組めばいいかについても、具体的なガイドラインを示さなかった。（中略）オストラムのアプローチは…社会的共通資本、つまりサステナビリティの広範な問題領域の解決に大きく貢献するものである。」（『サステナビリティの経済哲学』岩波新書、2024年、198‐199頁）
宇沢は何を遺したでしょうか。愛弟子のスティグリッツは、国連大学「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム基調講演」の中で、「経済学者のロールモデル」を体現した師を偲んで次のように語りました。
「（政治的制約から自由に、新しい世界の実現という共通の目的のために協力して取り組みこと、―岩田注）宇沢先生の一生はこのことがどのようにして成し遂げられるかの証左でした。研究者の役割はどうあるべきか、それをどのように演じるのか。先生は私に、そしてこれから何世代も続く後進の研究者に、模範を示してくださったのです。」（講演「宇沢先生が生涯をかけて教えてくれたこと―人間と地球のために経済学者は何をすべきか」2016年、『宇沢弘文傑作論文全ファイル』東洋経済新報社、2016年、18頁） |
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５ おわりにー初めて宇沢思想を学ぶひとのために
あと５分しかありません。最後に、読書案内をして終わろうと思います。
（１）自伝、評伝を読む
『経済と人間の旅』（日経ビジネス人文庫、2017年）
日本経済新聞「私の履歴書」（2002年）を中心に編まれた本です。豊富なエピソードが語られ、研究書では感じられない宇沢の人となりが垣間見られます。真っ先に読むべき本でしょう。
佐々木実『宇沢弘文－新たなる資本主義の道を求めて』（講談社現代新書、2022年）
同じ著者の『資本主義と闘った男』に挑戦すると、途中で挫折するかもしれません。「今を生きる」シリーズの全126頁の本書は宇沢思想の入門に好適です。
（２）思想のエッセンスを読む
『宇沢弘文傑作論文 全ファイル』（東洋経済新報社、2016年）
没後に編纂された全３４章から成る宇沢思想の全貌が俯瞰できる本。愛弟子のスティグリッツ教授による心温まる追悼講演（前掲）も収録されています。
『宇沢弘文の経済学ー社会的共通資本の論理』（日本経済新聞社、2015年）
2005年に日本政策投資銀行設備投資研究所の設立４０周年を記念して刊行された私家版『社会的共通資本と設備投資研究所』を編集・改題し、解説を付した本。『傑作論文全ファイル』と併せ読むと理解が進みます。
（３）本丸から各論へ進む。
『社会的共通資本』（岩波新書、2000年）
宇沢思想の、さらにはＳＤＧｓ推進のための「一丁目一番地」。現代社会を知る上での必読書です。
（４）各論を読む
ア）自動車
『自動車の社会的費用』（岩波新書、1974年）
宇沢思想の実質的なデビュー作かつベストセラー。５０年後の今読んでも、「こんな切り口があるのか」と驚かされる名著です。
イ）成田空港問題
『「成田」とは何か―戦後日本の悲劇』（岩波新書、1992年）
政府の強権的姿勢によって惹き起こされた戦後日本の悲劇を、国側と反対側を調停する立場から描いた貴重な記録。「象牙の塔」に引きこもらずに発言・行動する宇沢の人生が凝縮されています。
ウ）教育
『日本の教育を考える』（岩波新書、1998年）
友人の石川経夫の突然の死によって、代わりに執筆した本。教育の専門家が読むと「あれもない、これもない」という感想を抱くでしょうが、社会正義・公正・平等の視点から教育について熱く語っている姿勢は評価できます。
エ）地球温暖化
『地球温暖化を考える』（岩波新書、1995年）
地球温暖化が大きく取り上げられる前（京都議定書1997年）に、一般向けに分かりやすく解説した本。データは古いが、３０年近く経った今でも、社会的共通資本を通奏低音にした議論の進め方は研究者宇沢の卓越した力に感銘を受けます。
（５）一般読者向けの経済学の本を読む
『近代経済学の再検討―批判的展望』（岩波新書、1977年）、『経済学の考え方』（岩波新書、1989年）、『ケインズ「一般理論」を読む』（岩波書店、1984年）
『再検討』『考え方』は世界的な理論経済学者である宇沢が従来の経済学を踏まえ、それを超える「社会的共通資本」理論を提唱するに至るプロセスがよくわかる本。経済学史としても面白い。『「一般理論」を読む』は、ケインズの名著を解説した市民講座の講義録（私が初めて接した宇沢の著作）です。
（６）本格的に読もうとする人には
『現代思想 三月臨時増刊号（第４３巻第４号）総特集 宇沢弘文－人間のための経済』（青土社、2015年）、『宇沢弘文著作集』（全１２巻、岩波書店、1994‐1995年）
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数分ほど時間をオーバーしてしまいました。下左図は、私の大学在籍の最終年度に開催された大学祭（五月祭）のポスターです。宇沢はケインズの本を読んでいますが、タイトルはわかりません。私たちも「うるさい世間」の中で「原点」に還りたいものです。
長時間にわたり、ご清聴ありがとうございました。 |
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